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2006-05-22

母。

 疲れて寝た時には、必ずイヤな夢を見る。起きると決まって涙が出ている。けれども、ここ数日は少し違っている。10年前に逝ってしまった母が、夢に出てくるのだ。それも寂しげに微笑んでいる母の姿ばかりだ。

 母は死ぬまで苦労の絶えない人生を過ごした。私が3歳になる少し前の、突然の祖母(母の実母)の死の後、父の貞淑な妻、私と姉の母親の役目を完璧にこなしつつ、同じ敷地内に住んでいた、落ち込み続ける祖父・弟妹の身の回りの世話までしていた。
 そして私が二十歳を過ぎた頃、母は腹部の異状に気付き、総合病院で検査を受けた。病名は大腸ガンであった。しかし母の強い希望により、父は私に「良性のポリープ」だと偽り、その闘病生活の2ヶ月、私は母の病状に気遣う事無く、身勝手な社会人生活を送っていた。そして私は今の主人と結婚し、あっさりと実家から出て行った。

 一般的にも言われているとおり、ガンは5年以内に再発の可能性が高く、それを過ぎれば少しは安心できるらしい。それも通院をしながら、ゆったりとした生活をしていればの話だろう。しかし母の場合それが出来なかった。退院し1年が経った頃、祖父が脳梗塞を起こし、幸いと言うのだろうか、寝たきり程にはならずとも、半身麻痺の後遺症が残った。母は祖父をリハビリのため、近くの病院まで肩を貸しながら付き添い、夜はトイレに起きるのが難しい祖父のため、離れの祖父の家で、柱にもたれてウトウトするだけの毎日を余儀なくされていた。そんな過酷な生活の中、心配していた事が起きた。再発である。緊急手術の甲斐も無く、開腹するだけで施しようのない状態だった。

 その時期、私は長女を妊娠していた。偶然の悪戯なのか、その出産予定日が母の余命宣告の時期よりも、少しだけ遅かったのだ。ここで、また母は父を巻き込んで、私に嘘をついた。「お腹の子供に障るといけないから、事実を言わないように」と父に告げていた。しかし父の判断で、私は事実を知らされた。知らされた上で「知らない演技をしてくれ」と父に言われ、私は複雑な胸中で母との束の間の日々を過ごす事になった。母は病院から最期の退院の許可が下り、年末に帰宅していた。母の顔を見て安心したかのように、また迷惑がかからないようにであろうか、母の帰宅後すぐ、愛犬が眠るように死んでいった。母の手作りの餌を嬉しそうに食べた次の日に・・・。

 最期になるであろう正月のために、私は懸命におせち料理を作った。お腹が大きくなっても、自転車に乗って実家に足繁く通った。食が細くなった母のために少しでも食べてもらおうと、好きな食べ物を作ったり買ったりして持参した。そんな時期はそう長くは続かなかった。私は出産予定日より2週間早い4月上旬、夜中から陣痛が始まり、次の日の夜に夫の立会いのもと出産した。母は辛い身体をおして病院まで来てくれた。6日後に退院し、赤ん坊を連れすぐに実家に駆けつけた。起き上がることも困難になっていた母は、その直後に家には居られなくなり入院した。今思えば、長女は「おばあちゃん孝行」をしてくれたのだと思う。出産予定日に生まれていたら、実家で母に触れてもらう事は出来なかったのだから・・・。

 生まれたての赤ん坊を、総合病院に連れて行く事を周囲は反対した。どんな病気の人がいるかも分からないからだ。しかし私は夫に懇願し、毎土日に母に長女を会わせに連れて行った。そして、赤いカーネーションを母に贈れる最期の母の日、それでも母は「花の生け方もメチャクチャやね」と苦笑しつつ言い、大量に買って行った花束を幾つかの花瓶に上手く飾っていた。その時すでに母が余命宣告された日は、とうに過ぎていた。
 やっと長女の生後百日を迎え「食べ初め」をすませたと、病院に報告に行き、私は演技で「早く治って退院してよ!この娘の世話も頼むよ!」と、涙を堪えて私は言った。「そうやね、もうすぐ退院するから」と母。しばし会話した後、帰ると告げ病室を出たが、一言言い忘れた事を思い出し、ノックをせずに病室の扉を開けると、そこには泣きじゃくる母の痛々しい姿があった。母が気付かなかったので、そのまま私も泣きながら病院を後にした。母の入院中、会社勤めをしながら父は朝夕と病院に通い、身の回りの世話をしていた。父も当然ながら痩せていった。その父から「ママの様子がおかしい」と連絡があった。泣きじゃくっていた母を見た日の2日後の7月の暑い日だった。

 駆けつけると既に意識混濁状態の母の姿がそこに見えた。まるで長女の百日を待っていたかのように、安心したかのように意識をなくしてしまっていた。私の事を心配するあまり、気力で生きていたのだろう。長女の世話のために義母に来てもらい、姉と私と母の妹二人と4人で交代しながら、24時間の付きっ切りの世話をした。だが私が付き添いの時に限って、母は息を荒立てるのだ。たとえ話せなくても目と耳は機能していたのだろう。「私に付き添ってないで、早く帰って赤ん坊の世話をしなさい」と言わんばかりに。そんな日々が10日も続いた7月の末の深夜、昼に私と叔母と付き添いを交代した、姉から危篤の連絡が入った。急いで夫の車で病院に着くと、既に母の顔には白い布が掛けられていた。父も間に合わなかったのだ。母は気丈な叔母と姉の付き添いの時を選んで、息を引き取ったようにさえ思えた。父は白い布をそっと取り、頭を撫でながら「よく頑張ったなぁ、ホンマに頑張ったなぁ。もう楽になったか。しんどかったなぁ」と言っていた。私は動く事すらできず泣き崩れそうになっていたが、「泣くな。今からやる事が山ほどある。泣いたらママも安心できないよ。」と姉が私の手をグッと握り、看護士さんとの後の事を相談し始めた。

 私にもしも夫も娘も居なかったら、私は最愛の母の後を追っていたと思う。その時でさえ、棺桶に一緒に入りたいとさえ思えたからである。

 そんな母の夢を見ている。今の私の状態を嘆いてるのだろうか。それとも私の心を察して、あちらに呼んでいるのか。私は呼ばれてもいいかと思っていた頃もあった。それだけ私の心は病んでいたのだ。 

 しかし、今は、早くして亡くなった母のためにも、そして、なにより家族のために、自分のために、しっかりと地に足をつけて立ち、少しずつでもいいから、前に進んでいこうと思っている。 それが何よりの母への親孝行だと思う。

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コメント

こんばんわ

切ないですね~人が亡くなるって…

僕の姉はかなり苦しんで亡くなったと聞いたので、お通夜で少し笑ったような顔を見て、悲しいと同時に少し「ほっ」とした記憶があります。

13年の闘病生活の末亡くなったので周りは覚悟は出来てましたが、臨終を告げられた時、姪が医師に「長い間ありがとうございました」と気丈に言った後で「おかあさん!」とすがりついたと言う話を聞き、いまだにその時の心を思うと涙が出ます。

義兄もニコさんのお父様と同じように「よう頑張ったなあ」と顔を撫ぜながら何度も何度も言ってました。

姉は病弱でしたが義兄との仲が良く、間にもうけた一男一女も健康にまっすぐに育ったのでその人生はきっと幸せだったと思います。

人生の禍福はその長さだけであらわされるものではないのかもしれませんね…と言ってももう少し長生きして欲しかったです。

その義兄は、二児の母になってますます強くなった姪に叱られると仏壇に向かって「けいこ~、最近洋子がきついネン、おまえによう似てきたわ」と愚痴を言ってます(^^)

事実、姪は次第に姉に似てきました

投稿: MA$AYO | 2006-05-22 21:22

お孫さんの顔を見せてあげられたなんて
一番の親孝行をなさったのね!

自分の母親の姿を見ていると
母と子の間は 幾つになっても
産まれたときと一緒のような気がします。
あの瞬間から ずっとそのまま。
子供が60になろうが親が90になろうが・・・

ニコさんが最後に書かれたこと。
これで 天国のお母様も安心なさることでしょう。。。

投稿: 冬薔薇 | 2006-05-22 23:15

~MA$AYOさん~

私もある程度前から、告知されてたし、覚悟も出来てたんですけどね。。。
でも、亡くなった時よりも、最後の入院の前日、「ちゃんと元気になって帰ってくるからね」と微笑んだ母の顔を見るのが、一番辛かった記憶が。。。

私も、日に日に「ママに似てくるなぁ、アンタ」と姉に言われてますけど。。。(苦笑)

投稿: ニコ | 2006-05-23 23:20

~冬薔薇さん~

そうなんです! 長女はおばあちゃん孝行をしてくれたんです!

チョッと前までは、もっとネガティブな感じだったんですけど、
今は、こんな風に考えられるようになりました!!

これで、母が安心してくれれば良いのですけど。。。(苦笑)

投稿: ニコ | 2006-05-23 23:22

ニコさん。おかぁさまを亡くされていたのですか・・・。
わたしも母を亡くしました。
8歳の時だったけれど、今も良くおぼえています。
お産で妹と一緒に亡くなってしまいました。
今にして思えば末の妹は母と一緒に亡くなって幸せな子であったなぁと思います。仲良く天国にいるでしょう・・・。
おばぁちゃん孝行の可愛いお嬢ちゃんとこの先楽しい人生をおくられることが一番の親孝行?かな?
母よりも長く生きているわたし・・・
写真の母は凄く美しい人です(33歳やもんなぁ~)。
思い出の中の母は「宿題できたん?手伝うたろか?30円でどや?」とおどけた笑顔のおばちゃんです。
いつか描いて見たいなぁって、思っています。

投稿: teru | 2006-06-02 10:13

あれ?さっき書いたのがないじょ~~(泣)
では、もう一回^^)

ニコさまも、おかぁさまを亡くされていたのですね。
私も8歳の時に母を亡くしました。
お産で生まれたばかりの妹と一緒に死んでしまいました。
『行ってくるからね。後で赤ちゃん見においでや』笑いながら出て行った母に「いってらっしゃ~~い。妹がいいわ♪」と手を振って見送った5時間後でした。
何故こんなに良く覚えているかと言うと宿題の日記に書いていたから・・・お葬式まで、えんえん書いているなんて、よっぽど哀しかったのですね。
一番小さい妹は一番の親孝行を母にしてくれたかな?
天国で仲良くしていてくれればと、今になって思います。
写真に残る母は33歳の美しいひと。(私は誰に似たんやろ?)
記憶に残る母は『宿題しいや!手伝ったろか?30円でどや?』とおどけるオモロイおばちゃん。
いつか、母を描けたら良いなと思っています。
おばぁちゃん孝行の可愛いお嬢さんと楽しい人生を!!^^)

投稿: teru | 2006-06-02 10:27

すいません。。。変なトラバが多くて、一旦保留にしてあるんです。2回も入れていただいてすいませんでしたm(_ _)m

teruさん、初めまして^^ MASAYOさんの所でチラッとお見かけしてます^^ コメントありがとうございます!

私はもう二十歳を過ぎてたし、結婚もしてたので、8歳でお母様を亡くされたteruさんの気持ちは、計り知れない程のものだったでしょう。。。 それもそんな理由だと、一度に理解しがたいものがあったでしょうに。。。

天国で、母娘お二人で、teruさんを見守ってらっしゃるでしょうね。 私も、母がいつもそばで見守ってくれてるような気がしますよ^^

あ、teruさんは、関西ですか??言葉が!! 遅くなりましたが、明日にでもブログにオジャマします! お返事大変遅くなりました。。。

何だか、文章を書くことが、最近うまく出来なくて、ブログ更新も儘ならない状態です。 ふざけたブログなら書いているんですけどね・・・(笑)

投稿: ニコ | 2006-06-06 03:18

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